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SomAditya

2017.08.28 Monday
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2017.08.28 Monday
【嘘のジャングルで真髄を貫く事こそが修行なのだ…】


私が実際、最終的に「インドに住もう」と思った理由は「インド音楽とインド舞踊を習う為…」…だった。

だからこれだけインドの事ばかり発しているとよっぽどインド好きかと思われるけれど、本当は全然そうじゃない。

本当は音楽もファッションも、インテリアも、服装もインドのものは別にそんなに好きでない自分がいる。

そういう自分も大切に、大切にしている上でこれをしている。

だけど実際にインド音楽や舞踊の…というよりも、とても「芯」と「真」のある、しっかりとした文化であったり、継いでいく事尊さをもの凄く感じ、次第にその世界に引き込まれて行った。

それは音楽とか舞踊とかの範囲を超えた奥ゆかしい文化の魅力だった。。。

しかし。。。

そういう物事を「学ぶ」環境に自分が頑張って身を置いていない限り、インドの現代にはその「文化」を軽く、薄くしてしまっているとても残念な状況ばかりが目立つものである。

きっとこれは他のインドの伝統にも同じように言えるのだろうけれど…インド音楽や舞踊の世界も殆どが悲惨だ…。

私は彷徨っていた。

グルを捜し求めていた。

この世界には本当に魂のつながりをもつグルの存在が欠かせないからだ。

しかしだ、目にし、耳に入ってくる情報の殆どがそんな伝統文化に敬意のない「文化崩し」をしているインドの存在の大きさだった…。

インドの片田舎だけでない。

世界に誇るアーティスト達が集う都会でも同じかもっと酷いくらいの現状だ。

インド人なら誰でも先生になれる…。

それはこのインドの音楽や舞踊の世界こそ、ヨガの先生とか、アーユルヴェーダのドクターとかよりも酷いかもしれない。

もっと言ったら、私が子供達にインド舞踊を教えている所にたまたま居合わせた何もしらないおっちゃんも急に一緒になって熱く教えだすのが普通なのがインドだ。。。

「学校」でインド舞踊の服装だけさせて映画より酷いダンスを「古典舞踊」と言って踊らせている事だって当たりまえ。

学校の行事で「是非ステージで踊ってくれないか?」と言われて、「曲はどうするのか?」と聞いたら「クラシカルなら用意できる」という。
正直、いくら「クラシカル」でもこの伝承されて学んで行くものに突然「クラシカルだからこれで踊れ…」っていうのも無謀なのだけれど、いざ、曲を流してみたらボリウッド音楽かパンジャブ音楽…。

おーい。

DVD屋さんに「カタックダンスのものはあるか?」と聞いたら強引に「バラタナティアム」のDVDを手渡されて「違う」と言ったら「バラタナティアムの事をカタックっていうんだよ」…と、どちらの古典舞踊に対しても信じがたい失礼な事を自信満々に言うインド人は珍しくないと思う。

「知らない」を「知らない」にできない…

というのはインドの有名な話しだけれど、これはあまりにも酷い。

そんな中を潜り抜けて来て私は今までも学んできた。

しかし、インド人自身の「不理解」の波は今でも押し寄せて止まない…。

インドの古典舞踊とボリウッドダンスの区別など必要のない世界が実際のインドにはびこっている。

古典舞踊を自分の子供に教えてくれ…と訪ねてくる親が
「ほんの数日で娘を学校の催し物でキラキラのドレスで踊るヒロインにさせたい」と願い、

何年も「教えてもらう」事もなく、グルへの奉仕をしながら側にいさせてもらい、技や知識盗みながら基礎の一歩の練習をグルに声を掛けられるまで人知れず修行して行くような「弟子入り」みたいな気持ちは一切ない。

そんな古臭い事は廃れて来ているのか?

踊りの基礎、基本ができていない人が「振り付け」をYou tubeから拾いあって「誰でもすぐに出来る」が売りのポップなダンスの方が実際にインドでは大人気で、そこには皆お金も払う。

…なのに、どれだけ通っても基礎練習から離れさせてくれない、ステージも上げてくれない厳しい世界の古典にはタダでも通い続けようという人が少ない。

私のグル達もため息をついていた。

とある生徒が「練習をしてきた様子」が無かったから、クラスに来たけれどひたすら練習するのを待っていたところ、その生徒の時間が終わってしまい、帰宅していった後にその生徒の親から電話があって「今日全然教えてもらえなかったと子供が言っているけどどうゆう事ですか?」と言ったらしい…。

練習して来ない生徒にグルは何を見て、何を伝えればいいのだろう?

インドでも、もうそういう「お客様意識」が始まっている。

ため息しか出ない…とグルは言っていた。

時代は変わったのだろうか?

安易だな…世界は。

勿体無いな…世の中は。

急ぎ病だな…と感じるけど、これってこの音楽とか舞踊の世界だけでないかもしれませんね。

中々形にならない古典からどんどんポップな方に抜けていく人も居て勿体無いな…と正直思う。

でも「世の中」が求めているのはポップな事ばかり。

「自分」が伝承自体を努めようとする事が目的でなく。

それでお金をいち早く手に入れようとか、

直ぐに名声を浴びようとするとそちらに走るものである。

私自身は逆にあまり世の中に興味を示されない様な「真髄」の方にどんどん掘り下がっていく方が気持ちが正直で好きだけど。

肝心の本場のインドが嘆きたくなる状況。

ずっと前に私の所で古典舞踊を少しだけ習っているインド人の子がいたけれど、あまりにも基礎練習をしないからいつまでたってもちっとも前にすすまなくて辞めて行った子がいた。

でも私の所で基礎練習をやめた後すぐに古典に似た衣装を着てボリウッドダンスで外国人を相手にする観光地エリアで「古典舞踊を踊るインドキッズ」として脚光を浴びていた。

またか。

どうでもいいわ。。。

と思っていたけれどこの前その子がふっと私の所にやってきた。

まるで「私は既に踊りのヒロインですよ」と言った態度を見せながら基礎練習に励む生徒達の中をずいずいと押しのけて前に座り込み、偉そうなおもむきで練習を見ていた。

「私もまた古典舞踊を習いたい」
という申し出だったが、本当にきちんとやる気持ちがあるのか?
少しその態度を観察しようとしたその時に、
基礎練習をする他の生徒達が中々難しくてできなくて四苦八苦している所を前にしゃしゃり出てきて

「私がやってみるわ!」

と言う。

「やってみる…て?このリズムと動きを習ったの?」

と私は聞き返した。

「習ってないけれど見たから私は出来るわよ!」

と自信満々…

「じゃあ、このボールから言ってみて」
と当たり前に私はその動きのベースになるボールというリズム楽譜を言ってみる様に要求した。

すると当たり前の事に彼女はそれが出来ないし、
何の事?と無知をさらけ出した。

基礎練習の足の置き方の段階で辞めて行った人が、ネットやテレビで見たら出来る「振り付け」と同じ感覚でしか考えていないで古典を踊れるわけが無い…

「悪いけれど、これは見たら出来るボリウッドダンスと違うんだけど…基礎から順番に学んで練習をしてから前に出てきてくれないか?」と言ったら

「分かりました…」

といいつつ、二度とこなくなった。

でもその子はまだ時にバラタナティアムの衣装を着てカタックダンスと言ってボリウッドダンスを観光地で踊っている。

それで脚光を浴びたもの勝ちなのが世の中だ。

この安易さ。

聞いたらびっくりする人もいるかもしれないが…

インドってそういう所。

だから「嘘」のジャングルで「真髄」を貫く修行が出来る場所でもある。

私はその修行自体が好きなだけであって。
そう言った芯のある事だけ身近にいてくれればそれで心が落ち着くだけであって。

本当はインドの服も雑貨もインテリアも特に好きじゃない。

でも真があるからここにいるのだ。

 

 

http://somaditya.jugem.jp/?eid=172

kathak
 

| サットサング コラム | 00:54 | - | - | author - Mukta |
2017.08.27 Sunday
グル

グルという言葉を聞いた事があるだろうか?


指導者、指揮者、先生、師匠という意味に当たる。

 

が、グルという意味を知っているだろうか?

 

それは決して「盲目的に信仰し、その一人の為に身を捧げる対象」ではないし、
「人生にたった一人だけ」いればいいものでもない。

 

私達の最初のグルは母親だとインドでは言う。

 

グル=師

 

単純にそう思うと「母親が師とは思えない」
なんて個人の感情的な所で思ってしまうかもしれない。

 

しかし母親のお腹からこの世に導かれた時点で
母親は自分の一番最初のグルなのだ。

 

例え母の顔すら見た事がない人だとしても
お腹の中にいた時の自分という魂を成長に導いてくれた母親がいてこそ私達はこの世にこうして存在している。

 

母の食べたもの

母の思い

母の習性

 

それらが今の「私」に今でも根強く存在している。

 

確かに私達はグルによって導かれ、放たれたのだ。

 

「母からは何も教わっていない」

という人がいるかもしれない。

 

しかし、グルから得る学びというのは
「自分が学ぶ準備ができた時にのみ手にする事ができるもの」
なのである。

 

世の中は「お金を出しただけ受け取れる」が当たり前だと思っているし
勘違いかもしれないのに「素晴らしい」という情報を得られないと「学んだ」とは思えないのが常である。

 

しかし、グルは単純にその時その人に必要な情報を与えており、受け取る側の準備がなければそれが素晴らしい情報なのかどうかも知りえないのが本当で、グルは単に「従わせる」ものではなく、「放つ為」にいるとも言えるものだ。

 

正に私達は母親に放たれてこの世に生まれた。

 

最初のグル。

 

そして私達は人生の中で沢山のグルに出会い、放たれる。

 

ずっといてくれないといけない存在ではなく
自分が放たれてこそ本当の自分の人生というものを確立する事を導いてくれるのがグルである。

 

その為の知識、情報、経験を惜しみなく差し出しては、自分を超える様にと心から願ってくれている存在…

それがグルなのだ。

 

私達は意外と沢山のグルに人生の中で出会う。


けれどもそれに気がつくには自分自身の準備ができた時だけ。

 

皆がグルと思える程に
常に導かれ、放たれているという喜びこそが
本当は人生の中で得るべき課題。

 

嫌な事を言う人。
嫌な事が起こる。

困難が舞い込む。
困難に立ち止まる。

 

そんな時それらは「必要だからやってきた」
という目で見てみたらどうだろう?

 

そうすれば全てが「グル」である事に気がつく。

 

自分では分からないのが人間。


自分では気がつく事ができないのが人間。

 

だから用意された出会いしか存在していない事。

 

グルを知るとはそういう事になる。

 

そして多くの導きと放ちを特別に魂の仕事として行う真のグルがこの世には存在する。

 

でもそれは私のグルであって、あなたのグルではないかもしれないのが当たり前。

 

グルは必要な人にしかグルではない。

 

必要な瞬間にしか出会えない。

 

名前だけがグルではない。

 

受け取り、放たれようとしている事に気がついた時、
その人はグルになる。

 

そこまでに「私」という人間に投じてくれる力はとても尊いものである。

 

特別にそれを自分に対して行ってくれている人といのは必ず

その人もそうされて成長をして過ごして来たからなのだ。

 

気がつけば、
その教えは繋がっている。

 

代々から受け継ぐこの血と同じで、
自分の学びのルーツに対しての敬意を持ち
見る事のないその学びのエネルギーの元に対して祈りを捧げる。

 

尊さを知る。

 

それがグルに対する祈り。

 

ありがたい

とは、
「あり得ない事が起こっている…」
という感謝への気付き。

 

グルへの気付きやグルへの尊む心というものが
毎日の祈り…

 

それがインドの教え。

 

 

《サットサングコラム インデックス

| サットサング コラム | 16:58 | - | - | author - Mukta |
2017.08.21 Monday
【破壊と言う私達の使命】

小さい頃、宇宙スケールの妄想を沢山していた。

 

「私」が「勉強しなさい」とか、


「ご飯を食べなさい」とか言われている空間は宇宙のチリで

 

もっと大きな存在がきっと水槽の中の熱帯魚達を見るみたいに、


私達の生体観測をしているのかもしれない。

 

 

自然界の中で人間と言う動物はどう共有し、破壊し、
自ら破壊されていくのか…?

 

テレビでアイドルが下手くそな歌を唄っているのに世の中が
喜んで見ているのを、


子供ながらにとても客観的に見ながら

「これは誰の、何の実験なんだろうか?」

…と思っていた。

 

洗脳、軍隊、意識の統一化…

 

「勉強」させられる事も私にとっては実験されているに過ぎす、
必要ない事を必死で暗記させられる事が不思議だった。

 

授業中に空を見ながら、一体誰が何の為に、
いつまでこの実験をしているのだろう?…

 

空を見ながらの妄想が続いた子供時代だった。

 

「勉強しなさい」と言う叱りに

「これは私の将来に必要が無いから私はこれを理解出来ないでも何の問題もないから放っておいて下さい…」

と真剣に訴えていた。

 

家の中でも「私」と言う生体を観測しているのではないか?

と、家族すら宇宙人でないかを疑っていた。

 

洗脳されない様に、「気が付いている」事に気付かれない様に…

 

なんて考えながら過ごす子供時代だった。

 

…今でもその世界観はある。

 

何に私達は統一されようとしているのか?

 

皆きれいに洗脳されていく様子を、時代、時代の中で見流して来て

まだその薬に掛かっていないのが宇宙の向こうの存在に気付かれた時に私がどうなるのか?

を、大人になってやっと冷静に


「面白いじゃないか」と見れる様になってきた。

 

私が宇宙人なのか?

私が宇宙人に監視されているのか?

どちらでも良い事にも気が付いた。

 

これだけ大きな宇宙の中のチリ一つが地球で、
他の星に違う姿形をした生命体がいるのは当たり前で、

地球が、人間が何より大きな存在だと勘違いしてどこまでエゴを育て、
自然に調和できないで他を破壊し続ける様子は、
他の生命体からしたら「地球人」は凄い見ごたえのある不思議生命体。

 

一分一秒というおかしな「時間」を作り、
それに囚われている不思議な生体を宇宙は
笑いながら観測しているのかもしれない。

 

今日も空を見上げたらこの宇宙を水槽の中の様に見ている存在と目が合うんじゃないかと…

しかし、子供の頃は「気が付いている事」に気付かれないように…


と思っていたが、

今は気が付いている生命体がいる事に気が付いてくれ…と空を見上げる。

 

黒幕は既に地球上にいる。

 

上手に地球人を洗脳し統一しようとしている。

 

統一されない生命体は失敗作なので「障害」と断定しだして、
統一されている生命体に気が付かれない様に糸を引いている。

 

小さな地球の生命体達は

それが破壊に関する実験だとは知らずに地球人は
自然も自らも破壊する習性に過ごす。

 

今日も一日破壊がすすむ。

 

新しい再生に向けて破壊を使命に強いられている私達の手により。

 

大人になってからこういう宇宙のスケールが見られる動画を見た時に、
子供の頃に妄想していた一部そのものである…と思い出した。

 

以下リンク↓

https://www.youtube.com/watch?v=9FlIzgotFAs&feature=youtu.be&ab_channel=VastStillness

 

これすらきっと小さい。

 

その中のチリに当たる青い星を破壊する我々地球人を観測している存在に今日も信号を送る。

 

 

 

おんなもしゔぁえ。

 

 

《サットサングコラム インデックス

| サットサング コラム | 00:39 | - | - | author - Mukta |
2017.08.20 Sunday
アーユルヴェーダコラム★インデックス

SomAdi Vedaアーユルヴェーダクリニックが発信する

「本場のアーユルヴェーダが伝えたいお話し」

コラム集の総合案内です。

 

dw
 

★世界で一番の病気

★アーユルヴェーダのイメージ

★浄化の時間

★女性の悩みとアーユルヴェーダ

 

 

SomAdi Veda

Ayurveic Clinic Rishikesh.

 

| SomAdi Ayurveda | 16:55 | - | - | author - Mukta |
2017.08.20 Sunday
アーユルヴェーダのイメージ

「ヨガ」同様に、まだまだ日本では知られていない「本来」のアーユルヴェーダ。


未だにそんな印象なのね…?
と前回の日本で思った事をいくつか挙げてみたいと思う。

 

 屬瓦淕のマッサージ」
…そういう印象を持たれているのが第一位かと思う。

 

何故なら日本では使用できない薬草から作られたオイルなどを実際インドでの「医療」として使用されている為、日本では使用できないからあえて無難にベースオイルとしてよく使われている「ごま油」のみでの「マッサージ」がいいと伝えられているらしい。

 

さて、それは実際どうなんだろう?

 

薬草を違法で使うよりはいいだろうが、実際の医療として行っているアーユルヴェーダで、「ごま油」だけで施術する事はまずない。

 

もししている所があるというのなら可能性としては「民間療法的な観念で行っているだけ」で伝統医学的なものより簡易なものだと言える。

 

極まれにインドでも使用している人もいるかもしれないけれど「医療現場」のアーユルヴェーダではメインには決してならない。

 

それよりも「アーユルヴェーダ=ごま油マッサージ」と思われている問題点はそのオイルの性質と必要性にある。

「日本人にとってごま油は万能か?」


についてこれまで色んなドクターに聞いてきた。

 

何故なら以前から沢山のそういった質問が日本から寄せられており、インドの医療の現場で仕事をしてきた私にとっては経験の無い事だったからだ。

 

ベースオイルにごま油やからし菜油が使われている時というのは、その性質が特にピッタのアンバランスから来る問題を持っている人には刺激が強く、熱性になってしまう事もあり、すすめられない…というのが答えだった。

特に日本人はピッタ性の問題が本質的に多い。

 

ベースに使用されていたら非常に注意して選ばなくてはならないのに、そのベースのみのゴマ油だけを使用するのは万能とはいかない。

 

その前に知って貰いたいのが、アーユルヴェーダを知るならば「万能」は結局ないという事実だ。

 

◆屬瓦淕のシローダーラでリラックス」


これも引き続きごま油への誤解を考えると特に熱をあまり加えない方がいい部位の「頭」に熱した、そして熱性のごま油を使用するのは、その患者の体質次第では逆効果になる。

 

実際インドの医療として行っている現場では、お国、民族、地域によって特徴は異なるが、日本人の場合ごま油ベースのオイルをシローダーラに使用する事を避ける、別の方法のシローダーラが処方される事の方が実際に多い。

一番多いのがクワットダーラといってハーブを煮出したデコクション水での施術。

 

オイルを使用したら逆効果になるはずの人が多いのも事実。

 

「サロンの定番」だと思って自ら希望してごま油のシローダーラを受けて頭が割れるように痛くなった・・・という事例は実は今まで何件もある。

 

当たり前だと思うし、その前に自分で希望して受けるものじゃないけどな…という事になる。

 

「体質診断自己チェック表の使用」
これも「未だに!!!??」と驚いた事実だった。


アーユルヴェーダの事をあまり知らない状態で自己診断を占い感覚で行って間違える例はあとをたたないし、その前にアーユルヴェーダを理解していたならば、「どれかの体質に自分が当てはまる」という考えすら間違いなのである。

 

占いみたいに簡易に判断して間違った自分へのアーユルヴェーダ処方をして具合を逆に悪くした症例も実際に後をたたない。

 

自分の評価を意外と自分で出来ない事も問題だし、その前にその浅はかな「三つの内のどれかに当てはめる」的な考えでアーユルヴェーダを見ていては理解する日は遠いと思った方がいい。

 

ぁ嵬輝バターを溶かしてギー!!」


未だにワークショップでもやっているとか、本に書いてあるとかいう。何度もこの件に関しては「普通に考えたら分かる事」と注意を促しているけれど、人は「有名なドクターが本に書いたら信じる」という傾向がある。

 

アーユルヴェーダでいう薬の効果が期待できるギーはインド国内でもとても特別なものである。

 

偽者だと逆効果になる事が殆どなのを知らないといけない。

 

ギーは決してそんな市販の無塩バターから作られない。


「ギー風味」のものを食事で楽しむのはいいけれど、本物だって時期や必要性を注意して使用する訳だから決して「万能」ではないし、その市販のバターがどうやって作られているか?

 

…から、普通の感覚を大切にして考えて欲しい…。

 

…挙げたらきりがない事だけど、良く考えたら当たり前の事すらも「麻痺」してしまってこれまたビジネスに躍らせれているのが日本のアーユルヴェーダ界に沢山垣間見た。

 

正直、「有名なアーユルヴェーダ医師が書いた本」の中にはちょっと読んでも、いかにこれを書いた人が臨床の経験がないかが分かってしまう事が沢山書かれている。

 

インド式、なんちゃって、気休め…しか日本では本当に出来ないのだろうか?

 

下手に中途半端な真似をするよりももっと真髄を日本で伝えたらどうか?と思うが、「美容業界」=「成功したら億万長者」の魅力の方が「地道で辛い事ばかり」のアーユルヴェーダよりは人気なのが現実。

 

中途半端にしかならない施術をするよりも本当は大事な事が沢山あるのに、それよりも「簡易・安易・心の穴埋め」がお金になる方がいいのだろう。

 

でもそのせいで人が本当に改善すべき事の大事なきっかけが失われるのが現状だと思う。

 

自分から変えようとしない限り、いつまでも「やってあげる、やってもらう」気持ちのいいものだけを選び、本当なら治るところを、「アーユルヴェーダでは治らない」と、可能性を失われてしまうのである。

 

単なる真似事ではない、日本でも出来る日常になるアーユルヴェーダについて、もっともっと知って貰いたいな…と思うのでした。

 

でも、もう一つ問題なのはどう聞いていても地方の民間療法を気候が違う日本に持って来ただけ。。。

の知識ないインド人ドクターも沢山日本にいらっしゃる事…

 

インドの「資格」を信じる事から本当は注意して知ってほしいけれど、あまりにも「ドクター」とかいう名前に騙されている日本人にも問題ありと私は思う。。。

 

さっきの「無塩バターのギー」の件みたいに、普通の判断力が鈍っている人がアーユルヴェーダやっている人ほど多いのは問題かと…。

 

私は本当の医療としてインドにこれが残って欲しいと素朴に願うからお伝えしています。

 

最後にもう一つ

 

ァ屮茵璽阿肇◆璽罐襯凜А璽世隆愀言」
もまだまだ知られていないのは、「ヨガ」の事も結局まだスポーツでしかないからなんだろうな…という事。


インドではわざわざ「アーユルヴェーダ」とは言わないけれど
アサナやプラナーヤマを実践するならば時間や自分のトリドーシャのコンビネーションをアサナの実施に最低限当てはめる…


なんて当たり前の事も知られていない…。

 

じゃあ何の必要性があるとして、何を目的に「ポーズ」をとっているのだろうか?

 

「ポーズを完成させる為?」

それとも

「美ボディ?」

 

だったら日本人は「歩き方」から美しくした方がいいと思う…。

 

…そんなまだまだ本当に知られていないんだな…と思う事ばかり、今回も日本で感じました。

 

南やスリランカのリゾートで受けるものだ…だと思われている時点で世の中の上手なビジネスに踊らされているのが分かります。

 

リゾートに行ける階級の人しか受けられない医療だったらインドには残らないものになってしまう。

 

その「アーユルヴェーダのイメージ」が本当だったら、ここまでの歴史の中で既に消されているはず。

 

このイメージのせいで本当に必要な人に「届かない」ものになってしまっているのも全く「ヨガ」と同じではないか???

 

もっと身近な智慧になる事や、気持ちのいいリラックスの為ではなくて本当に病気に取り組む為の医療である事を必要な人に知ってもらいたい。

 

| SomAdi Ayurveda | 15:50 | - | - | author - Mukta |
2017.08.20 Sunday
「ヨガ」のイメージ


日本には沢山の新しい「ヨガ」が年々増えていますが、

それらの元となっているインドの伝統的ヨーグについてはまだまだ日本では知られていないな…

と感じる事がとても多いです。

 

結局元々のものを知らないという事がそれ自体の「目的」までも変えてしまう事になっているな…
と私が日本での「ヨガ」について日本の人達から聞いた中でよく思う事で、

私は決して「ヨギーです」とは言わないけれど、
人生の中に「ヨーグ」の教えが自然に必要な時に出てくる生活…

をインドでしている事で本来の「ヨーグ」の意味が曲がって伝わってしまっている事に

とても違和感と残念な気持ちを持つのです。

 

「ヨガ」をしている人ほど…

 

「日本」だとか、その環境がジャッジする「美しさ」に囚われて世の中の

「美」感覚に「収まろう」と必死で無理をしたり、辛そうな人が多い…

 

本来の「ヨーグ」を知っていれば、


長生きする必要もないし、
世の中に「綺麗」と認められる為にお金と時間を使う事も必要ない。

 

「ヨーグ」さえ知っていれば、


例え命が短くなっても、
「今自分に出来る事」
を楽しみながら夢中に
「自分の本当の幸せ」を追求して
「自分だけの美しさ」を持って生きる事が出来る。

 

「美意識」
すら統一されるように世の中は仕組まれている事に人は気がついていない。

 

それは世の中の流通にかかわり、大きなビジネスになっているだけで皆はそれに踊らされているだけだ。

 

「美意識」が誰かと同じようになる事や、あなたが「一般」に思っている「美」が仕組まれたものである事に気がつかず、そうなりたいとしている事はとても悲しい。

 

あなたは「自分が既に美しい事」に気がつくのが本当は先なのである。

 

「ヨガ」なのにその統一しようとする個性の無い美意識を誘発しているビジネスが多い世の中。

もはや「ヨーグ」とは関係がないどころか、反対へと向かっているとしか言い用がない。

 

体形が崩れる事や
シワが増える事や
歳を取る事や
病気になる事

を恐れて生きているだけだ。

 

ヨーグを知るならば

健康で長生きする必要すらない。

 

とも言えるだろう。

 

大切なのは「今」

自分が「美しい」と思うものに囲まれて
心が喜び
「自分の美しさ」を沢山見つけ出して
他にない「自分だけの人生」を
命つきるのがいつであれ
悔いのない様に生きる事だけなのだ。

 

「自分の中の美」を見つけ出す。

 

「自分が美しいと思うもの」を大切にする。

 

そんな簡単な事が出来なくなっている人が多い世の中で
「ヨガ」が「美容ビジネス」になる事で更に
「ヨガ」する人ほどそれが出来なくなっている人が増えている。

 

おいおい、第三の目はどこに向いているのか?

 

日本人の多くが視力に問題があり、レンズを付けなければ見れない常態でその「目」に見えるものに何故囚われているのか?

 

心の視力をもっと育成するのがヨーグじゃなかったですかー?

 

何故世の中の「ヨガ」は「肉体」にばかりこだわった事やアプローチをして大勢で同じ事をしようとしているのか?

 

それぞれの人生や個性、体質や問題や特徴に対する取り組み…はどこへ行くのか?

 

「ポーズが出来るようになる」事ばかり追求していたら
本当に「アーサナ」という処方が必要な人が更に遠ざかるではないか????

 

ある程度健康で、ある程度基準に収まる美しさで柔らかい人だけが集まってやるスポーツのイメージしかもうないですよね。

 

本当は本当に必要な人に届かなくなってしまっているのが「ヨガ」のそのイメージのせいですよー。

 

心や精神的なヨーグ、生き方や生活のヨーグ、そして個人にどんなヨーグのガイダンスが本当は必要なのか?
個人レベルで伝える事が出来ないでどうやって「ヨガインストラクター」が量産されているのだろうか?

そもそも何故ヨガインストラクターになりたいと思うのか?

 

せっかくしていた仕事を辞めて「先生」になる優越感と、普通に会社や社会で働く事への「見下す目」がヨガのインストラクターになりたい!という感情の中に沢山見える。

 

ヨーグをより良く理解するならば逆になると思う。

 

今自分に出来る仕事なら何でも気持ちよく出来て、無理もせずに、振り回されずに、何の仕事でも誇りを持ってするだろう。

 

私がもし今後日本にずっと暮らしていかなくてはならない…
と万が一なったなら、
きっと普通に工場か販売店、又は以前経験のある介護の現場で働くだろう。

 

「このまま主婦で終わりたくない!」
と言う人がいて、「先生」とか呼ばれる事で自分を「上」に保ちたいと計っている人もいたけど、

…悲しいな。


主婦のどこが「終わり」だと思っているのだろうか?

 

「主婦」ほど家族の幸せの鍵を握る事になる大役はないと思うのだけれど…?

 

人生のステージでその役目を楽しんで取り組んでいく事。

 

その方が今私に出来る「ヨーグ」となる。

 

ヨガマットを一切使わない
ポーズを一切取らない「ヨガの先生」
はきっと世の中にはもう必要ないのだろうか?

 

いや、世の中は知らないだけである。

 

それもまた今ある「ヨガ」のイメージのせいだとも言える。

 

本来のヨーグを理解したり、求めたりしている人ほど、
「ヨガ」を辞めました。

という声をしだいに聞くようになって来た。

 

それでいいと思う。

 

そろそろ気がつけばいいのにと思う。

 

ヨガビジネスに振り回されて時間もお金も無駄にするどころか、

普通に一生懸命生きる楽しみという価値観も
壊されている事に…。

 

そろそろ思い出して欲しい…

人生には

もっと大切な事が沢山ある事に…。

 

知って欲しい…

マットを沢山ひいてそこに人が埋まっているのが幸せで
皆先生を美しいとし、それを目指してポーズを必死に取っている姿自体が既に「ヨーグ」を壊している事に…

 

インド政府認定の資格に一体何の価値があり
そんなに優越感に浸っていられるのだろうか?

 

私だったらその資格を見せる事すら恥ずかしい。

 

インド政府がしているそのビジネスに踊らされているのをさらけ出しているだけではないか?

 

国際ヨガの日…にインド人達はまったをかけたいと思っている。

 

1000人もならべて「ヨガ」を同じ様にポーズを取る事で表現するからますます「ヨーグ」のイメージが壊れていくのにインドはため息をついている。

 

それらの事実は知られていない。

 

間違ったイメージから「ヨガ」で「無知」をさらしている人達…

 

サマディーに至る事を目的にしていてはいつまでたっても終わりが無い事をしらないでどうやったらサマディーに至れるのか?なんて無駄な事を考えている人達…。

 

サマディーに至ったと思い込み、手をかざすだけで万人を幸せにできる力を授かったと勘違いして結局弱い人達からお金を巻き上げている人もまた自分のカルマをどん底に落としているだけの可愛そうな人…。

 

普通に生活する事を辞めてヨガの為に生きる道を選ぶ…なんて事は本来は「生活や人生の為」のガイダンスとなるべきヨーグでなく、「ヨガ」に人生が支配されてしまっている残念な人生を送る事になってしまっている事にに気がつかない事…。

 

「ヨガ」のイメージから起きている沢山の残念な事。

 

それに人生を駄目にされてしまう前に気がついて欲しい。

 

元々のあなたは美しく、
元々のあなたの魂が喜べる人生。

 

それを知る事がヨーグのガイダンスで出来るっていう「だけ」の事…

| SomAdi YOG | 15:23 | - | - | author - Mukta |
2017.07.17 Monday
【本をどれだけ読めば…】


日本でアーユルヴェーダなどを勉強されている方々に多く会い、インドで実践されている事と、日本に伝えられている事の違い…などに「どこでどう学べば良いのか?」と悩まれる方に今回も多く出会いました。

 

そして皆さん結局「どんな本を読めば勉強できるでしょうか?」…ですとか、

「おすすめの本を教えてください」…と聞かれます。

 

正直、私はあまり(に^^)「本」を読みません。

 

なので、おすすめと言われても殆ど知らないのですが、では、日本で売られている、手に入る「本」にどんな事が書かれているのか?をちょっと時間がある間リサーチしてみました。

 

が、一番残念だったのはアーユルヴェーダの「体質」について、今だに私が「これはやめたほうがいい。。。」と言っている「体質チェック表」がメインであったり…汗

 

あれは多いに誤解を生みますからそれだけで自己診断、判断は出来ないですし、インドのクリニックなどでもそれを使う時点で本当のアーユルヴェーダとはちょっと違うと思ったほうがいいです。。。

と、「本物」と「偽者」を見分ける為の目安にしています。

 

しかしいまだに、、、日本で手に入る本にはそういうやり方で「アーユルヴェーダ」だと紹介されている…

そして多くの人はそれを「アーユルヴェーダ」だと思っている。

 

そしてそういう情報が売られている…

という現状なのに驚きました。

 

ヨーガでも同じですが、特にアーユルヴェーダの情報は正直、誤解を生むような事が書かれている事がとても多いなと思いました。

 

専門書というカテゴリに入るのに、あまりにリサーチと実践がすくない著者の人が簡単に出版している…という事が問題化と思います。

 

有名な日本人の「医師」が書かれたという本でも同じように見受けました。


尚更、読者への影響力は高いでしょうから、その人のその時だけのインドでの経験なのでしょうか?


「断定」をしてもらっては困る…という様な内容が見受けられました。

 

アーユルヴェーダには特に、気をつけないと「断定」など出来ません。

それは聖典ですら行っていない事です。

 

聖典を本気で読めば頭がおかしくなります。

 

それは、「決定的な定義」がないからです。

 

なぜなら私達は「自然」であり、「個性」であり、
誰一人として同じ人はいないからです。

 

病気にも個性がある。

 

という理論が理解できないと、
本当のアーユルヴェーダや
本当のヨーガを使いこなす事は難しいでしょう。

 

症状一つにも違う原因がある事へのリサーチ。

 

それが結局このヴェーダを元にした、ヨーグ、アーユルヴェード、ジョーティーシュ、という3つの項目から出来る療法の必要不可欠な最初の仕事なのです。

 

ですが、そんな気の遠くなる様なリサーチ、インド人だって最近はしません。

 

それでも「残っているもの」でもあり
「残していきたいもの」
ですから、

一年や二年、インドで経験したって分からない事。

 

断定して本に著せる事自体私には驚きです。

 

しかし、世の中は殆どが「勘違い」で成り立っています。

 

しかし、勘違いでうまくいく事もあれば、とても悪い結果を呼ぶ事もあるのです。

 

具体的に誰かの健康を害する事もあれば、
具体的に文化的な事を間違えて世の中に断定して伝えている事自体も良くない事です。

 

「本」は全て「信じていいものですか?」

 

私は自分の目で見て、手で触れて、感じてきたものの一つ一つを積み重ねる事が本当の学びだと思っています。

 

それはどんなに「焦って」も出来ない事です。

 

図鑑でさえ疑ってかかるくらいです。

 

自分で食べてみるまでは、使ってみるまではハーブの情報一つも他言など出来ません。

 

聖典であったとしても同じです。

 

「私」は聖典にも、専門書にも載っていない。

 

たった一つの魂ですから。

 

それが学べるのは、他人が書いた本を購入した時でなく。

 

私という魂が自分の人生のページに沢山の経験を記し、色をつけ、匂いまでもつけていくうちに「学び」になっているものです。

 

ギャーンヨーグ(ギャーナヨーガ)

という本当の意味を、知れば分かるでしょう。

 

さてそして、「本」から学ぼうとしている皆さん。

 

どうか他人の書いた本でなく、自分のページを埋めていって綴ってください。

 

「経験」に勝る情報はありません。

 

《サットサングコラム インデックス 

 

b
 

| サットサング コラム | 10:24 | - | - | author - Mukta |
2017.07.17 Monday
【ヨーグ = セラピー】


日本で数年前からヨーガセラピーについて聞くこと、聞かれる事があります。


ヨーガによる療法…という事ですが、私がその前に思った事といえばそもそも「ヨーガは療法でなければ何なのか?」という所です。

 

インドのヨーグからの見方としてはあえて「ヨーガを療法」にする必要はなく、元々「療法」の為にヨーグがあるという風にも言えるものなのです。

 

同じように「家庭でも出来るヨガ!!」という見出しの雑誌を日本で目にしたこともありますが、その時も「家庭で出来ないヨガって?」と不思議に思ったのでした。

 

そして日本でヨーガセラピーを学んでいる人の話しをきくと益々不思議に思う事が多いのが、「アーユルヴェーダ」の理論として有名なエネルギー論自体とは全く繋がっていない状態でヨガのアサナやプラナーヤマを療法にしている…という所です。

 

よく、ヨガの先生という人の口から「アーユルヴェーダは難しいのでちょっと…(汗」という声を聞きます。

「オイルを垂らす」イメージで考えているのであればそうですよね。

オイル垂らしながらアサナなど取る事は私にも考え辛いです。

 

インドからするとあえて「アーユルヴェーダ」とは言わないかもしれないほど、インドの古典ヨーガには「アーユルヴェーダの理論」で欠かせないエネルギー論が深くハタヨーガには関わっています。

 

当たり前すぎて伝わっていないのかもしれません。

 

しかし、日本や世界では「ヨガ」をしているけれどそのエネルギー論の関連性を知らない人が多いのに驚きます。

 

そして療法…といいますが、元々ハタヨーガなんて特にそのままの目的がエネルギーの「バランス」を図る療法でもありますから、あえて「療法」になる「ヨガ」が別で、新しくある!!という訳ではない…というのが本当の所。

 

ですから「そんなヨガもあるんだ!」という捉え方ではなく、元々「療法」であるという意識でハタヨーグを学ぶ事がインドでは基本かと思います。

 

しかし、単純に「このポーズやプラナーヤマはこの病気にいい!!」というのが「療法」ではないのも事実。


そもそも「病気」というもの、「症状」というものにも「個性」があって、別々の原因から起こるのが普通なのです。

 

アーユルヴェーダやヨーガの考え方はその原因の分析とそれに対処する「根本療法」ですから、「頭痛にこれ」「腹痛にこれ」「便秘にこれ!」という薬草の選び方、アサナの選び方…という観念ではないのです。

 

それぞれの症状にも必ずそれぞれの原因があり、それに対するエネルギーのバランスをして行く様にと「選ぶ」コーディネート術が必要となります。

 

そこに最低限必要となってくるエネルギー論が 
ハとタ

ヴァータ・ピッタ・カパ
に別れ
空・風・火・水・土
に更に詳細が別れ
それぞれのチャクラ
のエネルギーのバランスが
単純に開放されればいいというのではなく
(よく全回転させるとか極端な事を言われますよね^^)


活性化させたらいいのか?
それとも
抑えたらいいのか?


という所でも
どの位置をどうするべきか?を考えた上での


「アサナ」や「プラナーヤマ」


になる事を考える…

 

ですから、ハタヨーグには
「決まった順番や流れ…」など邪道なのです。

 

その時々の時間や季節や体調、不調、アンバランスなどのエネルギーに対してその都度何をどのくらいしたらいいのか?というコーディネートですから、


例えスーリヤナマスカール一つにしても
時間や季節や体調、体質で12に限らす、
リラックスできるポーズを入れて20になる人もいれば
アドヴァンスを入れて15になる人もいて、


10分かけて沢山の呼吸とともにゆっくりする人もいれば
2分ほどで勢い良くする必要のある人もいるのです。

 

インドでは実際そうです。


きちんとそういう事を把握した先生は決して、複数人の生徒がいるクラスで皆が同じように、同じだけのポーズを取れるようにという指示はしません。

 

同じクラス内で別々のタイミング、そして別のポーズを取る事も普通にあります。

 

それが自然なハタヨーグです。

 

「このポーズが出来なければいけない」
とか
「このポーズが出来るようになりたい」


と思っているうちは本当のヨーグを理解はできないでしょう。

 

必要性

 

という事を考えていく結果
自分に足りないエネルギーを補い
自分に過剰になったエネルギーを静める

という差し引きの「療法」であるヨーグがあるのです。

 

それが「元」であり「ルーツ」ですから
そのエネルギー論を分析する術がなければ本当の意味のハタヨーグの「療法」にはなりません。

 

そして日本ではよく全ての病気の原因が心から来るものであるから…


という理論にこじつけて、どんな病気に対しても精神疾患などの対処をするものもあると聞きました。

 

しかし、この理論を理解すればその「精神疾患」にも必ず「個性」があるのです。

 

「この病気にこのポーズ」


という考え方では本当の解決にはならないのが本当です。

 

それにもっと具体的な「身体」の症状に対してもハタヨーグは多くの事を分析の上で指導できますから、全て「精神疾患」に戻されすぎてはもったいないものです。

 

逆に「身体」に特化した事を筋肉や骨の構造で「鍛える」様な目的のヨーガでも、
その「精神」に特化した事を全ての病気の元とまとめる療法のヨーガでも、

そればかりに特化しないで「繋げる」事が本当のヨーグなのを忘れてはいけません。


身体と精神の繋がり。


その理論を無視してどちらかだけで対処するのでもなく。


その分析と対処に個性を重視してコーディネート出来るものが
「ヨーグ」の真髄だという事なのです。

 

日本にはこの「ルーツ」が足りないんだと思います。


それを知らずに量産される「ヨガインストラクター」を見る度に
「被害者だな」と思うのは、実際にそういう理論や繋がりを学ばずに「ヨガ」を教えていく行く末にインストラクター自身の心身の不調がおきたり、そのせいで「ヨガ」が嫌いになる人もいたり…必要なく「ポーズ」ができるように頑張らせた結果のヨガ事故…が年々増えているからです。

 

その前にハタヨーグだけではヨーグを知りえない事も知ってもらいたいですが…。


ヨーグとは?


という事の前にも「私」とは?


という事にも興味をもってもらえたら、もっともっと、ヨーグを「役立てる」事が本当に人生で出来るのになと思うのです…。

t
 

| SomAdi YOG | 10:17 | - | - | author - Mukta |
2017.07.17 Monday
【求められていないヨーグ】

 

長年の「ヨガブーム」で色んなヨガが世の中に生まれてきているのに、何故か広がらないインドの「ヨーグ」というルーツの知識。

 

私は何事もルーツが大事だと思うんですね。


新しいものが嫌いなのではなく、ルーツ、基盤さえしっかりしているからこそ本当はアドヴァンス的な事が出来るというのが事実で、基盤がない状態でアドヴァンスをしていると必ず崩れるという自然理論はどの世界にも共通している事だと感じています。

 

意外と知られていない「インドのヨーグ」…


でも実は「求められてもいない」と思う事もあるのが事実なのです。

 

それは


「ヨガ」をする時の意識が基本は「受身」な事にあるかと思います。

 

本来のヨーグは「自分を自分で正し、必要な事を選択して必要なだけ行い、不必要な事を控え、コントロールしていく事」というポーズだけではない「生活」や「生き方」のヒントのようなものが一番の基盤にあって、その上でポーズ一つを行うとしても同じ真意の中、必要性を自分でコントロールしていく為に「知る」必要があるのが「ヨーグを学ぶ」という事なので、アーユルヴェーダと同じ理論のエネルギー学…というだけではなく、「自分で見ていこう」「自分でやっていこう」「自分で変えていこう」という「意識」自体がとても大事になるのだと思います。

 

それが、「生活を変える」訳ではない。


「自分を変えよう」と自分でする訳ではない。

 

基本受身であり、
「やってもらう」
「気持ちがよかった」
「すっきりした」


…が目的である人が「ヨガ」と言って週に一回受ける…という事が繰り返される限り、本来の「ヨーグ」の教えは入る隙間もありません。

 

しかし、受身でたまに行う「運動」が「ヨガ」だと思っている限りではよくて日常の良くない行いからくるストレスなどを「プラマイゼロ」にする事くらいしか出来ないでしょう。

 

だから基本的に変われない人がいるのかと思います。

 

ヨーグを知り、取り組む事はもっと日常の事であって、自分で行う事。

 

その効果は「身体」なんていうレベルではなく「人生」に大きく変化をもたらすものである事をまだ知られていない様です。

 

美ボディとか、アンチエイジングとか、骨盤矯正とか言っている間は本来のヨーグから意識が遠いとしか言い様がありません。

 

「私」が「身体」である事や、世の中が「物質」である事という意識を変えなければ、真の「幸せ」はやってこないのです。

 

本来のヨーグを知るならば「ポーズ」が「出来た」とか「出来ない」とか、「出来るように練習する」とか、「出来るようになりたい」とかという事はまず出てこないはずなのです。

 

物質的なものへの執着をもっていれば、それがいつかは老い、壊れ、消耗し、死滅する事への恐怖と戦って生きていくしかありません。

 

本来のヨーグの基本的な考え方は逆で、受け入れ、手放し…の繰り返しが物質だけでなく、日常にこの生が終わるまで続いている事に過ごすだけなのです。

 

到達する事や維持する事への執着から開放されるべきなのがヨーグの教え。

 

しかし若さやスタイルを保つことや、凄いポーズが出来るようになる事を目指す事にと囚われている人こそが「ヨガ」をしている傾向があるのが「本来の目的」や「本当の意味」と違う事を残念な事に、表してしまっているのですね。

 

基本自分を良くしたいのは皆同じ。

 

しかし他力本願であり、お客様であり、プラマイゼロである事や、物質的な見た目が世の中の基準から外れていない事が「美」だと思っている事自体が「ヨーグ」から大きく外れているのです。

 

本当の「美」
魂の「美」

 

それをもっと求められる人生の為に…

 

本来のヨーグをもっと日本の人達にも知って貰いたいと思います。

 

きっとこんな事ばかり言っていると、日本の「ヨガ」業界からは煙たいだろうなとは思いますが、私は「私」の為に言っているのではないので、遠慮なくこれからも発信させてもらいます。

 

本当に必要な人の為に。

 


s

| SomAdi YOG | 10:12 | - | - | author - Mukta |
2017.07.17 Monday
【悠久の時間の学び…】


「200時間でヨガ講師になれる資格!」みたいのがあると聞く。


…200時間?


一瞬騙されそうだけど良く考えたらそんな短時間の勉強で「講師」になれるものだろうか?

 

と…思う

 

それが通常の感覚だと思う。

 

インドではヨガで無くてヨーグと言う。

 

そしてそれは「ポーズ」が主ではないが、インドの人達の生活、考え方、人生にガッツリ活用されている。

 

信仰でもなく、ポーズのフローでもなく、
心の拠り所にヨーグの「教え」がある。

 

子供の頃からそのヨーグの道徳的感覚の中、会話やモラルのような基盤の中にあればそれを200時間にする必要はない。

 

ポーズが主なハタヨーグを学ぶにしても、基盤やヨーグと言う根本的な意識がないと本当に落とし込む事は難しい。

 

アーユルヴェーダとはわざわざ言わないけど、その中で重要な理論の最低限「五大元素」や「トリドーシャ」、「トリグナ」と「ハタ」が繋がってないと「アサナやプラナーヤマ」を具体的にいつ、どんな時に、どう言う症状の人に、どの位必要なのか?

…を選ぶ事が出来ないから「順番」が決まった「ヨガ」になってしまう。

 

個人的な薬が処方できない市販の薬…は、必要の無い人が必要以上に飲むと逆に身体を壊す事を知らずに摂取されている…のと同じ。

 

個人的なコンサルティングが無く「ハタ」をする事は結局健康に問題が無い人がたまに出来る「デモ」でしかない。


個人的なコンサルティングとコーディネート、そして生活や精神的なアドバイスが無くて「ヨーグ」を教える「講師」とは言えない。

 

そして、身体の解剖学だけでなく、病気や症状に対する科学、理論、アーユルヴェーダ的な原因の分析などが出来るのも大前提である。

 

…その学びには「終わり」はない。

 

ましてや200時間に詰め込む事も出来ないし、触れられてもいない事もある…。

 

でもどうしてこの数年にそんな「講師を養成する…」が増えているのか?

 

と言う事情の「裏」には、結局資格ビジネスが手っ取り早い…と言うのがあるのだと、一目瞭然である。

 

普通に身体の不調があるからヨガを習おうかなー?と思って通い始めたのに、ヨガスタジオから「インストラクターになれる資格を取得したら?」と勧誘されて、気がついたら高額の契約をさせられていた…

 

と言いつつ、資格を取ったはいいけど、後から「ヨーグ」について知り、「え?チャクラって何?」とか、「病気の相談されるけど、ヨガでどう対処したらいいの?」…と

 

知らない事だらけなのに悩む人…

 

今まで日本に私が来ている中で沢山出会いました。

 

200時間のを受けたのですが…

 

…例えそれが500時間になろうと同じだと思う。

 

何時間習えばそれになれる。

と言う考え自体を捨てない限り。

 

そして、まず自分と言う魂が悠久の時間の中をただ「学び続ける為」
だけにある事を知らなければ「ヨーグ」を知り得ない。

 

時間に限りをつけて「習得」しようとしない事自体が「ヨーグ」の道。

 

だから幸せを知る科学とも言われている。

 

何故なら私達は「無限大」の魂の巡りの中に「無限大」の可能性を持って生かされているのだから。

 

限り

 

を自分でつけてしまう事は勿体無い。

 

結局、中途半端になる。

単なる勘違いになる。

 

…と知る人は、サマディーや解脱への執着から開放された、無限大の人。

「ムクタ(開放された)」になると言う事だ。

 

私のインド名は本当にそうなりたいね…と言う憧れの名前。


悠久の時と無限大の学びが得られる楽しい人生。

 

自分で時間の限りをつけて、肩書をつけているのは「堅苦しい」事だと言う事にまず気がついたら…

200時間で何かになる…

 

なんてのはめちゃくちゃ自分を堅苦しくしている事…


と言うのに気がついて欲しいですね。

 

《サットサングコラムリンク インデックス

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| サットサング コラム | 10:01 | - | - | author - Mukta |
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